赤い煉獄から始まる。 鼻に衝く廃材の臭いと、唇を湿らせる人の脂。 周りは一面の焼け野原で、倒れたいくつもの家屋は未だに炎を上げている。 確かな熱さは感じるのに現実感がなく、あまりにも日常から遠い風景は、心象世界で現実を塗りつぶす『固有結界』を彷彿とさせた。 その小さな戦場で、まだ倒壊をまぬがれている家屋の屋根から、男は遠くの眼下を見下ろしていた。 ここから二百メートルほど先。 そこに二つの異質はあった。 一方は火器を、しかしもう一方は火器を持っていないにもかかわらず、何もない空間から火を、時には手から光弾を撒き散らしていた。 何も知らない一般人が見ればただ奇術だが、見るものが見ればソレは立派な神秘。 魔術だった。 男の行為はそれらの非日常から隠れるための行動……ではなく、その逆。 二つの『死』を仕留める為の行為だった。 男はライフルの光学標準から向こうの世界を覗き込み、己をこの世界から消した。 狙撃とは覚られないこと。 呼吸は浅く、少なく。身体は微動せず。言葉も不要。思考も皆無。 この時、自分の身体は人ではなく、銃を構成する一つの部品と化す。 故に銃床も必要ない。 狙撃とは必死。 獲物を仕留める獣のごとく、ただ静かに、指にかけた引き金を引く、0.1秒の為だけに刻を待つ。 永遠とも一瞬ともとれる時間の流れの中で、 ――――その刻は訪れた。 勝利したのは、予想に反して火器を使うロングコートの男だった。 息を止める。 神秘を扱う魔術師は力なく地面に倒れ伏していたが、まだ息はあるようだった。 標準を絞り、 瀕死の魔術師に止めを刺すため、コートの男がゆっくりと歩を進める。 引き金に力を、 そして倒れ伏す男に銃口を突きつけ、引き金に指をかけ。 燃える空に、一発の銃声が吸い込まれた。 Fate/stay liminality 第一話 「虎に代わってお仕置きよ!」 腹の底に響く轟音を伴って、鉄の鳥が大空に飛び立つ。 空へと昇っていくその姿にしなやかさは無いものの、それを補って余りある、巨大な機械だけが持つ力強さを感じることができた。 そのふもと。人口の鳥の巣である空港の自動ドアがスライドし、中から茶色いボストンバックを持った男が出てきた。その瞬間、 温風器から発せられたような生暖かい風が顔を撫で、屋内と屋外の温度差に男は顔をしかめた。 季節はすでに秋になっているにも関わらず、日本はまだ夏が恋しいかのように蒸し暑い。 もう肌寒いだろうと予想して、スーツの上に薄いコートまで羽織ってきた男は、周囲の薄着をしている人達の中でも明らかに浮いていた。 とりあえず、四方から突き刺さる好奇の視線は無視して、っというか全然気にした様子の無い男は、さっさと客待ちをしているタクシーに歩み寄った。 男に気付いた運転手が後部座席のドアが開き、今度は中から冷たい風が漏れ出した。 どうやら車内で冷房が付けられているようだ。 つまり、今日はそれだけ暑いということ。 男は日差しを避けるようにタクシーに乗り込むと、隣にボストンバックを置いた。 「どちらまで行かれますか?」 「Gehen Sie zur Fuyuki-Stadt.」 「――は?」 怪訝な表情で振り返る運転手に、男は自分の犯した間違いに気付いた。 「おっと、すまない。冬木市まで行ってくれ」 運転手もさすがはプロだ。何事も無かったように愛想良く頷いて、車を発進させた。 最近は外国を節操無く飛び回りすぎているせいか、どの国に行っても、つい一つ前に滞在していた国の言語が出てしまう。 男もこの癖は何とかしなければと毎回思うのだが、いつも途中で違うことに思考が切り替わり、この懸案事項は次の国まで持ち越しになってしまう。 恐らくは、あまり長く同じことを考えられない性格なんだろう。 今回もその例に漏れず、男はふとコートのポケットから、掌に収まるほどの紺色の小箱を取り出した。 小箱を見つめる男の脳裏に、砂嵐のような擦れた記憶が蘇る。 これをある人に―――、 ひと際大きく揺れた車の振動で、男は意識を引き戻された。 そして、考え込んでいた自分を誤魔化すように、気だるげに息を吐いた後、 「……ったく、厄介なモン預けやがって」 ボヤいた。 「はい? どうかしましたか?」 「いや、なんでもない」 バックミラーからこちらを覗き込む運転手に首を振って、小箱をポケットに捻じ込んだ。 今のは半分本当で半分嘘。 自分を誤魔化したのもあるが、本当に厄介なモノを預けやがってという気持ちもある。 それがこの国を訪れた理由だというのなら尚更だ。 自分はとうにこの国を捨てている。 ラインの向こう側に立ったあの日から。 やがて男は静かに目を閉じ、走行する車の緩やかな振動に身体を預けた。 「ついに……来たな」 万感の思いを込めて呟いた言葉は、空気に霧散する。 シフトチェンジの音も、エンジン音も、付いているはずの空調の音も聞こえなくなり、車内は不思議と無音という音に満たされていた。 その原因であり中心。 自己の世界に埋没する男の姿は、僧侶の瞑想より清閑で、司祭の祈りよりも冒しがたいほど神聖だった。 しかし、その在り様は瞑想でもなく祈りでもなく、静か過ぎて、穏やか過ぎて、それはまるで、 ――――全てに満足して死んでいった、死者の眠りに見えた。 車は走りながら色々なものを追い越していく。 人、車、ビル、雲、そして――――冬木市と書かれた標識。 男の目的地はもう近い。 / 衛宮家の朝は早い。 時刻にして明朝の六時。 この時間は他の一般家庭からしても十分早いが、時折何の間違いか、日の出と共に起きることも珍しくなかった。 おそらく今日もそんな日だったんだろう。 俺こと衛宮 士郎が目覚めたのは日が昇ると同時だった。 もっと正確にいうと、目覚めた直後はまだ少し暗かったのだが。 それでも、一度起きれば二度寝する気にはなれず、朝からこうして冷蔵庫の中を覗き込みながら、朝食の算段なんかをしていたりする。 「えっと、魚はある。……豆腐の賞味期限が危ないな。揚げだしにするか」 後、味噌汁は必須だよな〜、と呟く姿は主婦歴ウン十年の、熟練のおばちゃんそのものだが、れっきとした高校生である。 チラッと時計を見る。 時刻は五時半を回ったところ。 「そろそろ桜が起きてくる時間だな」 急がないと、と慌しく動き始める自分に気付いて、思わず手が止まった。 彼女に手伝ってもらえば手間が省けるのは目に見えている。 だから彼女が起きてくるまでの間、テレビを見て待つなり、準備だけでもしとくなりしとけばいいのに、今の自分は桜が起きてくる前に朝食作りを終わらようと思っている。 桜に手伝ってほしくないというか、出来れば自分一人でやりたいというか、もちろん彼女の料理が下手なワケじゃないし、足手まといなわけでもない。むしろ助かるぐらいだ。 でもやっぱり一人で料理がしたい。 なんだろう、この説明しにくい感情は? ――――そうか、多分これはあれだ。 師匠は弟子の成長が嬉しいけど、一人の料理人としては素直に喜べない心境なのかもしれない。 桜も本当に上手になってるからな〜。 最近しみじみ実感するようなった。 もう品目によっちゃ俺より美味いのもあるぐらいだ。 桜がまだここに通い始めた頃、俺の作る料理を隣で見ながら、ウンウン頷いてメモを取っていたのが懐かしい。 好きで始めたことじゃないとはいえ、長くやっていたことで他人に追い抜かれるのはちょっと悔しいな。 「あれ? 先輩?」 頭の後ろ。居間の入り口から声が聞こえた。 もちろん声で誰か分かってたけど、礼儀上きちんと後ろを振り向いて挨拶を返した。 「おはよう。桜」 「日曜なのに朝から早いですね」 手伝うためか、制服を着ている桜は俺の隣に立った。 「手伝いますよ。先輩」 「良いよ。今日は朝から練習あるんだろ? こんな時ぐらいゆっくりしてろよ」 弓道部は大会前の特別練習があるとかで、部長である桜ももちろん参加している。 「いえ、そんな。悪いですよ」 「遠慮するなって。お茶でも淹れるから、ほら、座って座って」 渋る桜の背中を強引に居間まで押し戻す。 「そ、そうですか? それじゃ、お言葉に甘えますけど……」 「そうだ。そうだ。たまにはゆっくりしてろ」 いつもなら桜に押し切られるところだけど、今回は思うところもあったし、日曜の練習のある時ぐらいゆっくりしてほしいと思ったのも事実だ。 桜は渋々座ると、 「まさか先輩、私に料理させたくないだけだったりして」 ははは、なんちゃって。と笑う桜。 「…………」 思わず身体が硬直する。 額から流れる俺の冷や汗を見て、桜が気まずそうな苦笑いを浮かべた。 「……あ、あれ? も、もしかして当たっちゃいました?」 まさか当たりとは思わなかったんだろう。 桜といい遠坂といい、なんで女の人ってこんなに鋭いんだ? 「そ、そんなわけないだろ!」 無理やり笑顔を作って何とか誤魔化すことにした。 すると桜も、ですよね〜、と少し戸惑いながらも納得してくれたみた―――、 「―――――」 その妖しい笑みに一瞬で背筋が寒くなった。 身体が咄嗟に反応し、桜からマッハで顔を背ける。 い、今の誰ですか? たしか間桐 桜って僕より年下ですよね? けど、ニヤって。なんか怖いぐらい優しい目で、ニヤッてしたよ!? あの暗い妖艶な笑みは、とても十七歳の少女が出せるものとは思えない。 「見間違い見間違い見間違い、黒い影なんて見えてない黒い影なんて見えていない」 必死に自分に言い聞かせる。 普段の桜からは想像も出来ないギャップに、心のバランスを保つためか、無意識に包丁を握った手が、まな板の上をリズム良く叩いていた。 後ろを振り向きたいけど振り向けない。 怖いもの見たさなんてものはとっくに彼方へと吹っ飛んでいる。 もし振り向いて―――、 モウ、ショウガナイデスネ、センパイハ。 生れ落ちて五十年。恋をしない日なんてないわよ、フッ。……男? 孫悟空かな? なんてあっさりと言ってのける、百戦錬磨の熟女のような笑みがあったらどうしよ? 「どうか…したんですか? 先…輩」 「――――!!?」 桜の濡れた声に、背筋が一瞬で伸びる。 あらぬ妄想が一瞬頭をよぎりそうになるが、無理やり頭の端っこの端っこに押しやって、二度と出てこれないように頭蓋骨に塗り込めてやった。 どうする、どうする、どうする、どうする、どうする。 ここで選択を間違えば、BAD ENDで道場に直行の可能性も、 あれ、道場ってなんだ? あ〜、ダメだ! なんか頭がこんがらがってきた。 1、今すぐ後ろを振り返る。 2、三秒後に振り返る。 3、見ない……とみせかけて、やっぱり振り返る。 ちょっと待て! 結局、全部振り返ってんじゃん! 三番はそのまま見ないにしとけよ! 混乱を極める心境とは裏腹に、まな板を叩く平和な音だけが、居間に響き続けていた。 えまーじぇんし〜 えまーじぇんし〜 緊急事態発生 誰か助けて〜 / 「あははは!」 朝食を終えた居間に私の笑い声がこだまする。 常に優雅たれという家訓は、話を聞いた瞬間に綺麗さっぱり消え去った。消えざるを得なかった。 私は堪えきれない笑いを何とか噛み殺しながら士郎に言った。 「あ、あのね士郎。はぁ、それはからかわれたのよ。――ぶ」 ―――あ、ダメだ。 「あはははは!」 「もう、笑いすぎだぞ。遠坂」 ぶすっとむくれる士郎。 そんなこと言われても、これが笑わずにいられようか。 事の始まりは四十分前に遡る。 食卓に並べられた料理はどれもが微妙に雑で、大切な一日の始まりだというのに不手際な事この上なかった。 最初は桜が恥ずかしそうに目を伏せていたから、桜がミスったのかと思ったんだけど、訊いたら士郎が作ったって言うし、その肝心の本人もどこかうわの空で、こりゃ何かあるなと、桜が朝練に行ったのを見計らって士郎にゲロさせたんだけど……、なんと! この男は桜がちょっと大人っぽい表情を見せただけで、頭がのぼせるほどうろたえたという、初恋をした幼稚園児みたいな答えを返してきたのだ。 いや〜、その時の光景が見れなくて本っ当に残念だ。 それで桜が朝練に行ってなかったら、もっと楽しい事になっていそうだ。 まぁ、士郎は桜がいなくなったから話したんだろうけど。 すると、雑な朝食を文句も言わずに口に運んでいたイリヤが、読んでいた本をパタッと閉じて、いつになく大人びた溜息を吐いた。 いつもなら彼女の横に居るはずのセラとリズの姿が無かったが、恐らくはこの家のどこかに居るんだろう。出てくれば良いのに。 そして、その助さん角さんのいない黄門様はというと、呆れ顔で右手の人差し指を立て、出来の悪い教え子に補習を行う教師のような口調で、 「良い? シロウ。女の子には普段とは違ういくつもの顔があるの」 あ、出遅れた! 本来ならそれは私の役割はずなのに! チッ、仕方ない。今回は譲ろう。 「昔の偉い人も――――」 にしても、彼女のように少女にしか見えない子が、こうも余裕しゃくしゃくで女を語るのは、なかなか不思議な感じだ。 もしイリヤの事を知らない人がこの状況を見て、開いた口が塞がらなくなる姿が安易に想像できる。 「――――つまり、今回は士郎が最初の対応を間違わなければ、桜の嗜虐心に火を点けることもなかったと思うけど?」 ジロッと睨みつけられ、すっかり縮こまっている落第生。 女を語るイリヤは不自然だが、士郎に講釈するこの光景は妙にしっくりくる。 妹に説教されるダメ兄貴。ってところか。 いつもワガママを言ってばかりのイリヤだけど、意外と世話焼きなお姉さん向きなのかもしれない。 「シロウの気持ちも分からないでもないけど、――――姉のリンとしてはどうなの?」 目を細めてこちらを見つめるチビッ子女教師。 私は肩に掛かった髪を払いながら、家訓を再インストールした。 「良いんじゃない? 女に限らず人間誰しもが二面性を持っているんだし」 殺人事件の犯人の知人にインタビューするときに、よく聞く「普段は大人しい」「目立たない」なんていうのはその最たる例だ。 もちろんイリヤのお姉さんっぽいところもそう。 「今回はあまりにも士郎が情けないんで、ちょっとイジめたくなったんでしょ」 そんな状況なら、私でもからかいたくなる。 「これに懲りたら衛宮君もいい加減、桜をいつまでも後輩として見ないことね」 桜も桜だ。後で恥ずかしがるぐらいならやらなきゃ良いのに。 紅茶の注がれたティーカップに口を付けながら、横目でチラッと士郎のほうを見やる。 まだ納得していないのか、士郎は難しい顔をして唸っていた。 おそらくは、そうは言っても桜は後輩だしな〜、とか思ってるに違いない。 まったく、桜も報われないわね。 「……鈍感」 「ん? なんか言ったか?」 「いや、何でもないわ」 確かにちょっと前の桜なら考えられない行動だけど――――、ま、良い兆候かな。 イリヤも本当はどう思っているのかは知らないけど、今のところは私と同じ興味なさげな表情で本のページを捲っており、士郎はますます困惑に眉間のシワを深くしていた。 「しぃぃぃ」 その声は静かに、 「ろぉぉぉおぉぉ!!」 しかし、確実に地獄から近づいていた。 地を振るわさんばかりの荒々しい足音。カタカタとティーカップが揺れ、天井からホコリが落ちてくる。 咄嗟にティーカップの飲み口をガード。 だが、恐怖を煽り立てる獣の咆哮も、身体が竦む鬼の地団駄も、居間の前で唐突に途切れた。 静寂が居間を包み込み、襖一枚隔ててソレは確かな存在感を放っていた。 一瞬、襖の方に視線を取られるが、私とイリヤはすぐに何事もなかったかのように食後のティータイムを再開した。 だって、誰だか分かってるのにわざわざ驚くなんて心の贅肉じゃない。 唯一士郎だけが、怪しげなヨボヨボ老人が主人をしている洋館に入ってしまった、主人公バリの恐怖を顔に貼りつけていた。 ゴクッと緊張に息を呑む士郎。 ゴクッとバカらしさに紅茶を飲む私。 そしてついに地獄への扉。羅生門が開いた。 そこに居たのはなんと?! |